昭和四十九年十一月十八日 朝の御理解


御理解 第二十四節 「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ちこんでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ」

 家族が勢をそろえた信心とは、例えば、持ちあがらぬ石でもということは、例えば、助からん病気でもというふうにでも頂けるわけです。もう普通から言えば、これがおかげになるとは思われないと言ったような事でも、家族が勢をそろえて信心をすれば、持ちあがる道理じゃと、道理を教えておられる。ね。
 敬親会の教祖生誕祭の時でしたかね。お年寄りの方たちが、福引を頂かれて、北野の中村さんが、どうぞ、孫のやすよが、あのようにこの世の者とも思われんような様子で、長い間病気をいたしているのを見るにつけても、お祖母さんとしては切ない。どうか、あの人がおかげを頂かせて頂くためには、どういう信心をさせて頂いたらよいでしょうか。品物の善し悪しは思いません。どうぞ、後で頂く御理解、福引を引いたその物から御理解を頂くことになってましたから、どうぞ、そういう意味で引かせてください、と言うて、引き当てたのが、宮崎あたりの名物のお豆さんでしたかね。
 その上に書いてあるのがね、大きな【 】のうちわの絵の中に、「何々の豆」と書いてある。だから「何々の豆」ということは「やすよの健康」ということであろう。それも内輪中がひとつ本気で勢をそろえて信心をすれば、助からん者でも助かるぞという御理解であった。もう中村さんが願うておられる通りの答えを、神様がしてくださったんです。
 そこで本当に、例えば、中村さんたち一家が、そりゃ初美さんたちでも、清さんたちでも、あちらのやすよさんの叔父さん叔母さんたちになるのですけれども、子供がございません。二人に。ですから出きれば自分の子供にでもしたいごと可愛がっとったんです。<ゆみこ>さんの方には、娘のやすよさんとのりゆきさんと二人おりますから、娘の方を自分たちがもらおうとまで思うとるくらいに、だから可愛がっとったんです。
 けれども私は思いますね。もう本当に、親と叔母さんと、結局、叔父さんということは、こんくらい違う、こげんも違うじゃろうかと思いました。そのゆみこさんが、ああいう中に福岡から一生懸命お参りをしてくるけれどもです、ね。なら、お祖母ちゃんはああして一生懸命お参りをしてくるけれども、これに初美さんやら清さんたちが、もういっちょう後押しをするような気持ちでです、本気で<びろうじゅ>ですかね、いわゆるうちわの信心を固めていったら、ほんと、持ちあがらん石でも持ちあがるだろうになあ、といつも私はこれは思うことです。
 お互いおかげを本当に頂かなければならん大きな、いわば願いを持っておる。だからその願いが成就するために、どうしても言うならば、一家中の信心、そしてそこには勢をそろえて、しかも一緒にその事を祈らせてもらうといったような在り方になりませんとね、おかげになりません。
 これはまた話ですから、本当かうそか知りませんけれども、阿倍野の教会にたくさんのお参りがあるそうです。朝参りでも千人からのお参りがあるという話です。それがどうしてそんなに多くの人が参るかというと、御存知のように大阪というところは商都、いわゆる商人の町と言われるような町ですから、店長または社長がお参りをするとね、そこの従業員、社員たちも、女中さんたちまでもがお参りをするそうです。だから一人が参るとですね、家族中どころではなくて、店全体の者が参るそうです。「何時いつは手形で、どうも今度は難しかろうごたるから、君たちもあんたたちもひとつ加勢をしてくれ。神様にお願いをしてくれ」と言うて、社長が頼むそうです。ですから社員たる者、やっぱり社長の言うことを聞かんわけにはいかんから、まあそれこそ「誘われてのしょうことなし」じゃああろうけれども、お参りさせて頂いているうちに、金光様の信心の有り難さがわかる。そしてそれは見事におかげ頂くそうですね。
 だから毎朝、一人が信心しよると、五人なっと十人なっとが参りよるもんだから、やっぱりそういうことになる。合楽に今、百人のお参りがあっておるとするならです、その百人の人がです、十人ずつ参ればやはり千人になるわけです。それもいうならば主人なら主人、社長なら社長、店長なら店の店長がです、店員たちにまで頼むんです。それはです、そんならその店員たちまでもがおかげを頂くということになるのです。結果においては。店員たちが、またのれん分けをしてもろうて他に店を出すときには、今度はまた金光様のご信心の御利益があらたかなことを知っておるですから、自分の店の家内も女中さんも店員さんも、ひとつ頼んで参ってもらう。ひとつの事を願うのに。
 そういう勢をそろえての信心が見事にできておるのが阿倍野の教会だというふうに聞いたことがあります。確かにそうだろうと、そりゃ本当だろうと私は思います。
 本当にね、家族勢をそろえて、いわば家族どころではない、その店族までもです、いうならば、お導きをして参る、頼んで参ってもらうというくらいなね、信心がいるのじゃないでしょうか。「もう私が、一軒の代表で一生懸命信心させてもらうけん、家族の者、どうぞおかげ頂かしてください」なんていうのと、もうだだ値が違う。
 まあそういうような一人で持ちあがらん石でも、勢をそろえれば持ちあがると。ばらばらでは持ちあがらんという、それを現在の合楽ではどういう事にならなければならないかというと、教会をあげて合楽示現活動に参画させてもらわなければならない。これだけはどうでも勢をそろえなければならない、という事になるのです。
 昨日朝のお食事を、私と高橋さんと久富さんと家内と、毎朝お食事をさせてもらうわけですけれども、若先生がやってきてから、十六日が南久留米教会の御大祭でした。そしてこれだけは親先生の耳に入れとかなければいけんと思うて、と言うてやってきました。
 何事かと思うて聞きましたら、お祭が済んで、「合楽の若先生、ちょいとこちらに来てください」と先生から言われた。宮の陣の先生と西原教会の先生が若先生を呼ばれた。そして「最近、あなた方のことで、えらい問題になっとる。だいたい合楽示現活動というようなことが、いうなら得体の知れない信心だというふうに皆が言う。思うとる。次には、大黒様を奉祭する。それを金光教では偶像崇拝といったような宗教ではないのに、大黒様を奉らせるとはなんたることか。これはもちろんいよいよ問題になりましょうけれども、前もって、あんたに忠告しておく。知らせておく。」という意味だったらしいんです。
 詳しくは聞かん。それだけの事ですけれども、私は聞かせて頂いて、有難いなと本当に思いました。本当に合楽示現活動ということの実が大きくあがろうとしておるのです。私ども信者一人ひとりのことじゃなくて、これが例えば、連合会でこの問題を取り上げるでしょう。教務所を経て、本部の方へも行くでしょう。そしたらそのことを、いよいよ私が説明をしなければならない。そのことについても若先生が一通り説明したそうです。合楽示現活動の意味を。そしたら他の先生方が、「そりゃ大変素晴らしいことじゃあるの」と言うて、共鳴してくださったと。けど大黒様のことだけは分かりなさらんごたるふうじゃった、ということでございます。
 まあ皆さんは、そのことは分かっておられるから、ね。例えば、大黒様をお奉りさせて頂いたら、もうとにかく商売の売上が、ころっと上がったとか。二百万円も、奉ったとたんに、ころっと入ってきたとか。ね。毎日毎日、お大黒様にかつてないような金のお供えをさせて頂くことが出きるようになったというなら、誰だってお奉りしますよ。
 もう今、百五十三体。これにまたあと十体注文してあるから、もう百六十何体になるわけです。だからこりゃもうやはり、人間はすざましいまでの欲望を持っていますから、金はいらんという者はおらんですから、本当に大黒様をお奉りして、そういうおかげが頂かれるなら、誰だってお奉りします。しかもそれはです、勝彦が先生方に説明したのは、あれは、いうならば親先生を拝む。通して、金光大神を拝むという意味なんですから、と説明をしたそうなんですけれども、大黒様というひとつの偶像に対する疑問が、なかなか解けそうになかったらしいですけれども、これとても説明をするならばです、どこの教会に行っても、御結界に出て参ったら、皆、ここでこそしませんけれども、柏手を打って御結界を拝みますよ。先生を。
 例えば、私どもが三代金光様のご神徳を知っておりますから、今でもやはり金光様の御写真を、いうならば柏手して拝むのと同じことです、という意味のことを話したと言っていました。
 だから、形こそ大黒様だけれども、「親先生」と思うて拝むのですから、もうそりゃ素晴らしい、これは神様のご演出だと思うのです。ね。
 まあそういうことを私といたしましても、今日の御理解からです、そういうように教団でも、いよいよそれが問題になるだろう。問題になって話を聞いたら、なるほど合楽示現活動というのは、金光様のご信者、いうなら全部が、この示現活動に参画させてもらわなければならない。こりゃ本部がこれを取り上げて、ひとつ全教に、ね。合楽で例えて、この合楽示現活動が始まって以来、いうならば奇跡の連続。ご信者さんはうなぎ登りに増えていく。そういう事実を説明したら、誰だって、どこの教会だってです、たくさんの信者がほしい。
 教団全体をあげて、合楽の在り方を教団が理解して、そういうひとつの運動を起こすということになったらです、ね、教団の曲がり角といわれるような今の時代に、一躍私は、大きなご比礼が教団の全体の中の上にも起きてくるだろう、とこう思います。
 だからどうでも問題になるしこなるがいい。そしてそれを説明を聞いたら、金光様の信心しとる者ならば、皆が合点がいくことなんだということなんです。
 だからその元を取っておる、中心になっておるところの合楽示現活動の合楽の信奉者全体がです、いわば、大勢が掛け声で一度に力をそろえて、このことに願いをかけなければならない、ここに情熱を本当に燃やさなければならないということをです、改めて、ね、まあそうですね、もうそれこそ合楽の信者が、運命共同体ということが言われますが、もう運命を一緒にしようというくらいな気持ちでです、おかげを頂いて、これが全教にこのことの働きが始まるようになったら、金光教全体が運命共同体としての、信念共同体としての運動、活動になるということは、そのまま、たくさんの人が助かっていくということにつながるのです。
 今日私は、この二十四節を、小さい自分の一家といったような意味のことを、中村さんの例をもって聞いて頂いた。教会のご比礼ということをです、阿倍野の教会の朝参りが、どうしてあんなに多いのか、というのは、ただいま申しますように、社長が辞を低くうて社員にも頼むと言うのだもの。ね。奥さんがお参りをすると、女中さんたちにまで頼んで参ってもらうという。ね。そこにおかげの実があがる。それを女中さんも店員さんも、はあ金光様ちゃ、あらたかなこっちゃある、と言うて、自分たちが今度は、女中さんが嫁入ると、嫁入った先で、またそれを広げていく。店員さんたちが店別れをして店を持った時には、また自分の店員さんたちに頼んでお参りをしてもらうのですから、なるほどそういう素晴らしい光の輪が広がりに広がっていくはずだということを聞いて頂いた。
 次にはこれをもっと大きく大きくです、合楽示現活動ということが、このように言われております。そしてその実が実際に上がっております。ね。例えば、何ヶ月かの間に「おかげの泉」なんかが、倍にも増えております。読者がね。
 ですからこれは、なるほど神様が先に立って、いうなら神仏が不思議な働きを示し現すことだといわれるような神様のお心が実際に現れておる。口で言うだけではない、宣伝だけではない。実が上がっておるのですから、どこの教会だって、どこのご信者さんだってです、そういうおかげを頂きたいということはもう願い望んでおられることだ。
 そこで合楽示現活動ということの意味が分かったら、こりゃ、例えば昨日、勝彦が先生方に説明したように、「そりゃ、あんた素晴らしいことじゃんの」と言われたように、分かってもらえるということなんだ。そして金光教全体が合楽示現活動に参画させてもらうというようなおかげを頂いて、ね、金光教が大発展をするということは、世の中にそれだけ多くの人が取次ぎ助けられるということにつながるのですから。ね。
 今日はここのところをです、一番始めに言ってあります、「人に誘われて、しょうことなし」と。先生があげん言いなさるけんで、毎日お届けしてお願いしよう、といったことではいかんです。だいぶん合楽示現活動というお初穂が多なった。だから、ただお付き合いで多なったんじゃいかん。自分自身が本気でです、その身から打ち込んでの合楽示現活動に参画させてくださいという祈り、願いというものを持たせて頂いてです、ね、自分一家のことはなおさらのこと、教会全体のことはなおさらのこと、ましてや教団全体のことの上にです、私どもが願いをかけ、祈りをもたせて頂いて、合楽全体が力をそろえて、このことを祈り願っていくならばです、しかもそういうきっかけがありよる。問題が起こりよるということは、そういうきっかけが出来よる印なんだから有難いことなんだ。ね。
 ですからそういう働きの中にお互いが在るのですから、いよいよ教会をあげて、勢をそろえて示現活動に参画という、まあそういうひとつのスローガンというものを先に立てての信心をさせて頂くことになればです、自分一家のことはその中に入ってしまうことだ。ね。日本中のことを願えばです、日本中のことの中に福岡県もあり、久留米市もあるのですから。
 そういう大きい願いに立ってです、ひとついよいよ勢信心のおかげを頂きたいと思います。どうぞ。